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禅定門 散骨供養尊 草冊眼蔵禅祖行持巻

 
草冊眼蔵

佛祖行持
( 改訂 禅祖行持巻 )
(仏位の系譜が不明な場合は「仏祖」を「禅祖」と読み代えてください。)
宗礼

 佛(禅)祖の現成は、佛(禅)(禅)祖を挙拈して奉覲するなり。過現当来のみにあらず。佛(禅)向上よりも向上なるべし。まさに佛(禅)祖の面目を保任せるを拈じて礼拝相見す。佛(禅)祖の功徳を現挙せしめて住持しきたり。体証しきたれり。

ここに自分の神や教祖からの信仰の系譜を入れる

系譜の事例
パブロ
ディエゴ
ホセ
フランチェスコ
デパウロ



チュリニダット
ピカソ


直近または継世の名前
以上、系譜の事例

記入事例終わり

 いま有道の宗匠の会をのぞむに、真実請参せんとするときそのたよりもとも難弁なり。ただ二十、三十の皮袋にあらず、百千人の面面なり。おのおの実帰をもとむ。授手の日くれなんとす。打春の夜あけなんとす。あるいは師の普説するときはわが耳目なくしていたづらに見聞をへだつ。耳目そなはるときは、師また道取おわりぬ。耆宿尊年の老古錐すでに拊掌笑呵呵のとき、新戒晩進のおのれとしてはむしろのすえを接するたよりなほまれなるがごとし。

 堂奥にいるといらざると、師決をきくときかざるとあり。師はあれども、参不得なるうらみあり。参ぜんとするに、師不得なるかなしみあり。大善知識かならず人をしる徳あれども、耕道功夫のときあくまで新近する良縁まれなるものなり。さだめてこの事煩をしのびけん。この行持の法操、参学せざらんはかなしむべし。

 不知のくににいたらんとす。身命をおしまん凡類おもひよるべからず。これひとへに大慈よりなれる行持なるべし。伝法の自己なるがゆえにしかあり。伝法の遍界なるがゆえにしかあり。尽界は真実道なるがゆえにしかあり。尽界自己なるがゆえにしかあり。尽界尽界なるがゆえにしかあり。いづれの生縁か道場をさへん。救迷情の自己なるがゆえに驚疑なく怖畏せず。救迷情の遍界なるゆえに驚疑せず怖畏せず。

 衆生いかにしてか佛(禅)正法を見聞せん。いたづらに名相の沙石にわづらふのみならん。しかしながら祖師の行持にすくはるるなり。方俗はるかに邪正あり。大忍力の大慈にあらずよりは伝持法蔵の大聖むかふべき処在にあらず。住すべき道場なし。

 知人の人まれなり。佛(禅)(禅)嫡嫡相伝する正法眼蔵、ひとり祖師のみなり。経行して面壁燕坐すといへども習禅にはあらざるなり。一巻の経書を将来せざれども正法伝来の正主なり。たれのこころあらんかこの慈恩をかろくせん。たれのこころあらんかこの恩を報ぜざらん。すでに古経をしり古書をよむがごときはすなはち慕古の意旨あるなり。慕古のこころあれば古経きたり現前するなり。

 祖師来よりのち経論に倚解して正法をとぶらはざる僧侶おほし。これ経論を披閲すといへども経論の趣旨にくらし。これ黒業は今日の業力のみにあらず。宿生の悪業力なり。今生つひに如来の真訣をきかず。如来の正法をみず。如来の面授にてらされず。如来の佛(禅)心を使用せず。諸佛(禅)の家風をきかざる。かなしむべき一生ならん。愚蒙のやからひさしく経論の草庵に止宿するのみなり。しかあるにかくのごとくの嶮難あるさかひを辞せずいとはず初祖来する玄風いまなほあほぐところにわれらが臭皮袋をおしむでつひになににかせん。

 いま、正法にあふ百千恒沙の身命をすてても正法を参学すべし。賢不肖ともに進退にわづらふべからざるものなり。しづかにおもふべし。正法よに流布せざらんときは身命を正法のために抛捨せんことをねがふともあふべからず。正法にあふ今日のわれらをねがふべし。これらみな古来の佛(禅)祖の古来の佛(禅)祖を報謝しきたれる知恩報恩の儀なり。

 いまの見佛(禅)聞法は佛(禅)祖面面の行持よりきたれる慈恩なり。佛(禅)祖もし単伝せずばいかにしてか今日にいたらん。一句の恩なほ報謝すべし。一法の恩なほ報謝すべし。いはんや正法眼蔵無上大法の大恩これを報謝せざらんや。一日に無量恒河沙の身命すてんことねがふべし。法のためにすてんかばねは世世のわれらかへりて礼拝供養すべし。諸天龍神ともに恭敬尊重し、守護讃嘆するところなり。道理それ必然なるがゆえに。

 いま、道のために身命をすてざれば聞法の功徳いたらず。身命をかへりみず聞法するがごときは、その聞法成熟するなり。ただまさに行持なる一日は諸佛(禅)の行履なり。ただまさに日日の行持その報謝の正道なるべし。いはゆるの道理は日日の生命を等閑にせず、わたくしにつひやさざらんと行持するなり。これすなはち行持なり。この行持の功は祖佛(禅)として行持するわれありしなり。

 生者かならず滅ありと見聞するは小見なり。滅者は無思覚と知見せるは小聞なり。学道にはこれらの小聞小見をならふことなかれ。生者の滅なきもあるべし。滅者の有思覚なるもあるべきなり。現成を願ぜんにも人情をめぐらすことなかれ。佛(禅)法の行持を堅固にすべきなり。

 修練ありて堂閣なきは古佛(禅)の道場なり。露地、樹下の風、とほくきこゆるなり。この処在ながく結界となる。まさに一人の行持あれば諸佛(禅)の道場につたはるべきなり。ただまさに行持修錬し、弁道功夫あるのみなり。正法伝持の嫡祖、いくばくか山中の嶮岨にわづらふ。人物の堪忍すべき幽棲にあらざれども、佛(禅)道と玄奥と化成することあらたなり。しかあればすみやかに生死の愛名をすてて佛(禅)祖の行持をねがふべし。名利をすつることは人天もまれなりとするところ、佛(禅)祖いまだすてざるはなし。古来の勝躅なり。晩学の参究なるべし。これ人にあふなり。

 佛(禅)法もし各自理会ならばいかでか尋師訪道の老古錐あらん。諸方に参禅の名字をかけ祖宗の遠孫と称する皮袋、ただ一、二百のみにあらず。稲麻竹葦なりとも、打坐を打坐に勧誘するともがらたえて風聞せざるなり。参ずべきを参ぜず、いたづらに光陰を磋過す。あはれむべし。胡説乱道をかまびすしくするを佛(禅)祖の家風と錯認せり。

 しづかにおもふべし。一生いくばくにあらず。佛(禅)祖の語句たとひ両両なりとも道得せんは、佛(禅)祖を道得せるならん。佛(禅)祖は心身一如なるがゆえに、一句両句みな佛(禅)祖のあたたかなる心身なり。かの心身きたりてわが心身を道得す正当道取時、これ道得きたりてわが心身を道取するなり。此生道取、累生身なるべし。かるがゆえにほとけとなり祖となるに佛(禅)をこえ祖をこゆるなり。いたづらなる声色の名利に馳騁せざれば佛(禅)祖単伝の行持なるべし。すすむらくは大隠小隠、一箇半箇なりとも万事万縁をなげすてて行持を佛(禅)祖に行持すべし。


補注:  一般に流布している正法眼蔵撰集の「行持(下)」の巻は、本題が「佛祖行持」と銘されていたものを「行持(下)」と変更したものである。草冊眼蔵の佛祖行持の巻は、正法眼蔵の「佛祖」と、「行持(上)」の末尾と、「行持(下)」とを簡略化して合巻とし、「佛祖行持」の巻題を再び得たものである。文中の御名は通称五十七佛と言われ嗣法成熟し、経文となって現在一般に暗誦読誦されているものを新たに収載した。インターネット公開のこの草冊眼蔵禅祖行持巻は、その改訂遺継を容易に行うことに資するため、作成した。

2021R031001 Tokyo SinjukuLB 書写 大法愚道
 




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